5.24.2016

敬遠

敬遠。敬意を持って遠ざける。その敬遠を、4回投げるという「儀式的な」行為から、球審への意思表示だけで成立させることが、米大リーグのオーナー会議で決まりつつあるようだ。

しかし、この敬遠、単なる儀式的行為にとどまらない。というのも一塁に歩かせるために行ったその行為が暴投になって三塁ランナーが生還するというようなことがしばしば起こるからだ。また、敬遠のボールがついストライクゾーンやその近くに入ることもたまにあり、それに手を出すバッターもいる。機械的な処理では決して起こりえないことが、敬遠にはある。

敬遠によく似た儀式的行為に、ホームランがある。ホームランは変えようのない事実だからといって、打ったランナーを走らせる「儀式的な行為」をやめさせるとしたら、さぞかし野球は無味乾燥なものになりはしないか。

野球は人間的な、あまりに人間的なスポーツだ。人間味、人間臭さがあるところに野球ファンは面白みを感じるのではないか。意思表示だけで成立する敬遠が通ったら、今度はホームランという事実的な行為が発生した時点でランナーは周回しなくてすむ案が出そうな気がする。

0 件のコメント:

コメントを投稿